生きたい

 人生を生きるということは、つらいことである。特に自分のような人間には耐えがたいものだ。オルテガというスペインの思想家が言うには、我々は運命を受け入れそれと戦い、人生と対峙しなければならないらしいが、自分にはできそうにない。しかしオルテガは人生から逃げるのは自殺行為だという。

 実際その通りだ。自分でもそう思う。何もかもどうでもよくなって妄想に生きているときは、人とうまく話せないし物事にもうまく対応できない。魂が半分抜けたこのようになっているし、情けない自分になっている。残念なことに社会に生きている以上何かしらの評価はされるし、他人特に異性の前でかっこ悪いところを見せてしまうとへこむ。中途半端な生き方をしているくせに、誰かにかまってほしくて、でも話しかけた相手は本来の自分が話したい相手ではないから、会話をしても退屈でうまくいかない。

 人生から逃げ、戦わずに生きるということは、本来自分がなすべきことをしないというだけではなく、自分のしたいことさえ分からなくなってしまうことを意味する。そういう意味で人生から逃げるということは自殺行為なのである。

 かくいう僕も自分の人生を生きれていない。あれもこれもやりたいし、同時に何もしないで消えてしまいたい。友達はいないし、彼女はできたことがなくいつもさみしい。そんな孤独なのかにいるから、人生に集中できない。ちょっとしたことですぐへこんでしまうし、あれもこれもやりたい割にそれをし、成果を得るまで耐えるということができない。僕はすぐに満たされたいのだ。なぜなら、抱きしめられたことがないから。心をごまかせないほど孤独だから。だから今すぐにでも楽になりたい。満たされたい。愛されたい。

 しかしこう思っているうちは何も得ることはできない。努力しなければならない。死ぬ気で生きていくしかない。それを僕は引きこもりをやめてからの1年半で学んだ。引きこもるまでの人生は地獄だった。心を壊しながら生きているような状態だった。だから引きこもりをやめてからは今度こそ自由に生きようと思った。だから何もせず、努力せず、わがままに生きた。しかし、違う。自由とはあらゆる困難を乗り越えられるからこそのものなのだ。決して何もしない、背負わない、苦労しないということではない。

 僕は元引きこもりとして、つらい日々を生きた人間として、決して頑張れなどという言葉は口にしない。しかし、もし可能ならば上を見続けなければならない。頑張っていれば誰かがみてくれている、なんてことはない。しかし、自分がみている。僕たちは誰かに同情してもらいたいわけではない。ただ、一人の人間として認められたいのだ。現実から逃げて妄想ばっかりしていたいわけではない。充実した人生を送りたい。だから、誰かがみてくれている、などということはどうでもいい。胸を張って生き、他人と触れあう、そのために自分の人生を生き抜く。

 僕は頑張れなどという言葉が嫌いだ。しかし、生き抜けという言葉は自分に対して使っていかなければならない。人並みの愛される人生のために。


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